流れの中の思想(Instagramの設計思想を妄想する)

Instagramのエントリが続いてるのは偶々です。

Instagramのサービスとしての主な特徴、いくつか上げられると思いますが、ざっくりおさらいするとこんな感じでしょうか。

  • Feedは常に最新の画像から遡って見る
  • like,commentなどをつけられ、写真の持ち主にはそれが通知される
  • 外部連携が充実している
  • 写真は正方形に切り取られ、簡単なエフェクトがアプリ内で実行できる

一方で、明らかに(ある意味徹底して)実現していない機能があります。
likeをつけた写真をあとから見たい」という言葉に代表される、蓄積ないしは振り返りの機能。あまりにフローで、ストックが出来ない仕組み。例えばlikeでなくたって、bookmarkとかローカルに保存とか、何らかの形で実装されていてもおかしくない「あの写真をいつでも見たい」という当然想定される欲求に対する答えが、意図的に排除されているようにさえ思えます。


もちろんまだ実装されていないだけ、という可能性の方が大きいのですが。まぁその場合は「考えすぎちゃったねー、よちよち。」と笑うなり慰めるなりして頂くとして、僕がこの状況に何を感じた(妄想した)のか。
それは、サービスやソフトウェアを構築する過程での「設計思想」です。


純粋にプログラミング的な意味において、「自分がlikeをつけた写真をみる」という機能の実装がそこまで難しいものとは思えません。抽出条件は明確なので、あとはFeedと同じ方法か、もしくはPopularのサムネイル形式(個人的にはこっちが良いな)で並べて見せれば良いだけです。

一方で、TwitterFacebookとの連携は始めからしっかりと入れてきました。とにかくまずはリリースしてしまおうという見切り発車ではなく、おそらくは取捨選択した結果としての実装。これはスタート段階から、サービスの意図や性格がそれなりに考えられていたことを示す気がしています。
でも、実はInstagram自体はSNSとしての機能はさほど強くない。ある意味外部連携によって丸投げしているとも言えますが、プロフィールに自己紹介文すら入れることが出来ない。ここでも主張は写真(アイコン)のみでしかなし得ないのです。



全てに共通の意思が感じられるのです。
「昨日出会ったあの写真をもう一度見たいって?それよりも、今日出会えるはずのクールな写真を見てくれよ!」



始めから充実している外部サービス連携とやりとりに不向きな仕様のコメント機能は、写真を元にした交流は別の場所でやりなよ(そのための仕組みは用意するよ)、という意思の現れ。
アイコンと名前だけのプロフィールは、「何者であるか」よりも「どんな写真を撮る人なのか」を見て欲しいという意思の現れ。
全ては今そこにある写真を主役とする設計思想。お気に入りをストックするアルバムではなく、常にフローし続ける新たなる創造と感性、切り取られた偶然と魅せるための創意に日々出会い続ける場所。
そう考えると、いまここにあるInstagramというサービスが生まれたとき、何故このような取捨選択が取られたのか、全てがしっくりするような気がします。


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Instagram 4.2.4 (無料) App
カテゴリ: 写真/ビデオ
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まぁでもきっと、いま届いているであろうユーザの声の多くは「likeした写真のリストを」「コメントのやりとりをしやすく」「ローカルに保存させて」なんてところでしょうから、明日にはニーズに応えた新生Instagramになるのかもしれませんがね。